Schoppa(2006)

Race for the Exits: The Unraveling of Japan's System of Social Protection

Race for the Exits: The Unraveling of Japan's System of Social Protection

[問題設定]
日本は、80年代には高い生産性と平等な社会を両立させ繁栄を謳歌したが、90年代以降「失われた十年」を経験し、明らかにその政治経済と社会的保護のシステムに行き詰まりをみせている。しかしながら、そうした機能不全に陥った従来のシステムの改革に失敗しているにもかかわらず、日本では下から改革を徹底させるような動きは起きていない。なぜか?
[議論]日本の社会的保護のシステムは企業と女性という二つの両輪からなるシステムであった。すなわち、企業が終身雇用制をもとに従業員の生活を保障し、女性が家庭で家族成員のケアに専念するというシステムである。そして、こうしたシステムを可能にしたのが官僚機構の規制により秩序だった競争が行われる「護送船団方式」であった。これが政府支出の規模ではアメリカ並みの「小さな政府」でありながら平等で安定した社会を達成した秘訣であった。
しかし、80年代に一定の「豊かさ」を達成した後、日本ではこの社会的保護を支える二本の柱が徐々に崩れていく。日本でも女性の労働市場への進出が進むが、男性正規雇用を中心とした雇用慣行では、女性が結婚・出産をすると退職せざるをえず、終身雇用を中心とした労働市場では育児後に労働市場に再参入しようとしても低賃金の非正規雇用(パート)しか選択肢が残されていない。また、ケアは家庭での女性の役割であるという前提のもとでは、仕事を続けながら子供を育てる母親への支援(育児休業保育所・家族手当・税制)が貧弱となる。それゆえ、女性たちの間では「仕事も家庭も」という選択は取りえず、「仕事か家庭か」という二者択一となり、結果多くの女性が結婚・出産のコースから離脱し、出生率が低位に陥ることとなった。
一方、企業を中心とした社会保障も、規制に守られた国内保護セクターや硬直的な労働市場による高コスト構造のため、国際市場での競争力を持つ大企業が世界各地に生産拠点を移し、安定した雇用に守られた労働者の割合は減少していくこととなった。
では、なぜこうした機能不全のシステムを改革できないのであろうか。鍵はハーシュマンの『離脱・発言・忠誠』にある。これまでハーシュマンの議論は「グローバル化などの離脱のオプションがあって初めて発言が有効にある」といった形に誤解されてきたが、彼の議論の鍵は発言(Voice)と離脱(Exit)が改革に与える影響はコブ形だということである。すなわち、離脱というオプションが取れず発言のみの場合と、発言のオプションが取れず離脱のみの場合に改革への圧力が最も強くなり、その中間では発言オプションも離脱オプションもどちらも中途半端となって、改革は進展しない。
日本では多くの女性が「子供無しのキャリアのみ」か「キャリアを追求せずに子供を持つ」かのどちらかに特化する結果、「仕事と子育ての両立」を求める運動は盛んにならず、この分野の制度改革が進展しなかった。官僚機構は「1.57ショック」後、出生率の低下を深刻に受け止め様々な対策を打ち出してきたが、下からの運動の欠如の結果、システムを変えるほどの成果は上がっていない。一方、経済改革のほうはというと、70年代と違い、競争セクターの大企業は海外への政策拠点の移転という「離脱」オプションを得たため、たとえ財政投融資改革、労働市場改革、公営事業改革、不良債権処理といった分野で成果が上がらず高コスト構造が是正されなくても、財界を用いて「発言」のオプションを行使することはなかった。「出生率の低下」も「産業の空洞化」もドラスティックな効果を持つ、あるいは効果の分かりやすい「離脱」オプションではないため、改革は先延ばしにされることとなった。
この「発言と離脱」モデルの有効性は、例外的に改革の進んだ高齢者介護制度と金融ビッグバンと他の政策領域とを比べるとわかりやすい。高齢者介護の領域では、誰もが親を持ちそのケアからは逃れられないため、女性団体による「発言」オプションが働き改革が進んだ。一方、金融ビッグバンでは、大企業の海外直接投資と異なり、金融資本はクリック一つで「離脱」オプションを行使できるので、資本の「離脱」を防ぐために改革が進展した。これがこれらの改革が例外的であった理由である。

[コメント]

  • 90年台以降の日本の政治経済の読み物としては滅法面白い。特に、日本型社会保障制度の核としてジェンダーを導入した点は目新しく、議論に説得力を与えている。
  • しかし、理論的なレベルでいうと、ハーシュマンを用いた議論の有効性には疑問符をつけざるを得ない。まず、何がどの水準だと純粋に「発言」で、どの水準だと「離脱」で、各政策領域での当事者の「発言-離脱」配置はどこになるのか、基準が不明確。全て後付で「純粋に発言オプションだけだったので」、「離脱オプションが強かったので」といわれても。同時に、「改革が進んだ」「改革が遅れた」という基準も不明確。
  • おそらく、「女性や競争セクター大企業が純粋に「発言」(あるいは「離脱」)オプションを行使したときの改革の帰結」という半事実仮想をもとに言っているのだろうが、純粋に「発言」だけだったとして本当にショッパの言う「改革」が進んだかどうかはわからない。例えば、中国がグローバル市場に参入し安価な労働力の供給拠点として台頭するなかで、本当に望ましかった改革は「高コスト構造を克服する柔軟な労働市場」だったのだろうか。どっちにしろ価格競争力では勝負にならない以上、たとえ競争セクター大企業がイニシアティブをとっていたとしても、男性正規労働者を中心とした終身雇用・年功序列のシステムは変わらなかったかもしれない(それが柔軟で高付加価値の生産に寄与するのであれば)。また、ショッパのいう改革が望ましかったとしても、「離脱」オプションのない状況で、女性や競争セクター大企業が「声」をあげるがどうかはわからない。なぜなら、これは典型的な「集合行為問題」状況であり、改革にフリーライドできるならば各個人・企業が改革を求める運動に参加するインセンティブは生まれない。

離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)

離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)