ESPAnetワークショップ@Vrij Univ. (アムステルダム珍道中三日目)

この日は午前中の最後のセッションで自分の報告があるということで、実はアムステルダムに着いてから報告用のパワポの準備をあたふたと始めました。しかし、イタリアで入手したノートパソコンのアダプターは脚が三本あるのに、アムステルダムのソケットは足二本しか受け付けないということが判明。ホテルのフロントにコンバーターはないか聞いたものの、持ってないとのことで、敢え無くパワポ作成は断念。しかも、初めの事務局からの話ではセッション参加者は事前にペーパーを読んでおくことが前提なのでそれほど細かいプレゼンはいらないかと思いきや、参加者にドタキャンが相次いだ関係で二日目最後のセッション(自分の会)は分科会形式ではなく全員集合の場で発表することになり、余計に焦らされる始末。ワークショップHPにアップしたPDFファイルの図表をプロジェクターで映し、あとは口頭発表で誤魔化すという手でなんとか事なきを得ましたが、やはり事前に発表の準備をしてから旅立つべしというのが教訓です。
さて、報告ペーパー自体は自己評価ではあまり良い出来ではなかったのですが、期待に反して討論者からは好評で、みんなの前で「学術雑誌、それもレベルの高い雑誌に投稿すべき」といわれてしまいました。どうも、新しい理論やテクニックを使った論文だとその結果の頑健性とかはあまり気にされないようです。いつもセミナーとかで「この結果の解釈は甘い!」とかいっているこちらとしては自分の論証が頑健でないと「ダメ論文だなこりゃ」と思ってしまうわけですが、論文の評価基準というのは学界ではもう少し違うところにあるようです。
自分の報告を終えた後は提供されたランチを皆で食べ、自分の報告の討論者の共同研究者の院生が「ランチの後少し話したい」ということだったので、同じ建物の彼の研究室へ。彼はアムステルダム自由大学の所属だったので。彼は自分の分析と同じような変数を使って福祉国家の再編を研究しているらしく、話しが弾みました。実はEUIの政治社会学部に合格していたらしいのですが、コースワークのないVrij Univ.のほうが博士号取得まで短くてすむということでEUIを蹴ったらしく、「同僚だったかもしれなかったね」と言ってました。それでも、Vrij Univ.は院生が少なく、4階に街を見渡せる立派な研究室が配分され、しかもここ数年はほとんどの院生がアカポスを得ているらしいので恐らく賢明な選択だったのでしょう。ちなみに彼は van Kersbergen のお弟子さんらしく、アジアの儒教福祉国家論についてどう思うかと聞かれてしまいました。文化論全般に批判的な自分としては「儒教自体の意味合いが東アジア諸国間で違いすぎるから説明にならない」と答えておきましたが、実際のところヨーロッパやアメリカは訪れたことがあるのにアジア諸国は一度も足を踏み入れたことのない自分としては「儒教?何それ?」というのが正直なところ。ちなみに彼からはShepsleと葉っぱを吸いに行った話なんかも聞くことができました。
ワークショップ会場を後にし、向かった先は「アンネ・フランクの家」。アムステルダムは美術館数館と街並み以外の観光地はこことハイネケン博物館ぐらいしかないんです。運河沿いの家は戦時中にフランク一家ともう一家族がゲシュタポの追跡から逃れるために隠れ家としていたもので、戦後ただ一人強制収容所から生き残ったアンネのお父さんが記念館として残したのでした。中は当時の建築をそのまま残しているものの、フランク氏の意向で家具等はすべて取り払われています。当時のユダヤ人虐殺や隠れ家生活などの記録映像が所々に配置され、訪れるものに人種差別や戦争というものを深く考えさせます。出口近くの売店では思わず『アンネの日記完全版』を買ってしまいました。
最初に出版された『アンネの日記』はアンネのお父さんが編集したもので、アンネの日記にはアンネが日常の日記として書き残したものと、戦後に戦時中の生活史として出版されるのを夢見て清書したものが別に残っています。アンネの父の死後、両者が研究版として出版され、いまはそれを新たに編集して『完全版』として出版されているわけです。そこには同居家族との諍い、母親との葛藤、性への興味、といった思春期を隠れ家で過ごした等身大のアンネを映し出す記述が残されていて、読み物としても非常に面白いものとなっています。読むとアンネの文才が非常に早熟だったことに驚きます。そして、感じたのが、家族全員をナチスに殺され、一人残されたアンネのお父さんの戦後の人生はどのようなものだったのかなということ。日記には「お父さんだけが私を愛してくれる」だとか、「パパだけが唯一の理解者」といった記述が繰り返されています。そうした娘の記憶は心の奥底に沈めて平穏に戦後を過ごすこともできたはずなのに、「アンネの日記」と平和への願いを広めることに残りの生涯をささげたお父さんは、常に亡き娘、しかも末っ子で一番可愛がったはずの娘のことを常に意識して生きねばならなかったはずです。恐らくそれはつらいものだったのでは推測します。実際、協力者の手により保管されていた日記が戦後お父さんの手に戻された後も、娘の日記を読みきるまでかなりの時間がかかったのだそうです。涙が邪魔して読めなかったのでしょう。
アンネ・フランクの家」を訪ねた後に日記を読むメリットは、日記に出てくるさまざまな記述をはっきりとイメージして読むことができること。隠れ家の入り口を隠す回転式本棚や、三階と四階を結ぶ急な階段はもちろん、時を刻む時計台、家の前を流れる運河など、アンネの目にしたものが文章から明確な像を結び、理解を助けてくれました。


さて、アンネ・フランクの家を後にしアムステルダムの街並みを散策した後、ライゼ広場付近のインドネシア料理屋で夕食。定番のナシゴレンを注文したのですが、不味くはないものの美味くもないという感じ。一応、評判の店らしく込んでたんですけどね。国立の無国籍料理屋「共和国」のナシゴレンのほうがずっと美味しいです。
ナシゴレンを食した後は再びコンセルトヘボウへ。今日のコンサートはフィンランドの作曲者/指揮者サロネンの自作のピアノ協奏曲とストラビンスキーの”De vuurvogel”。二回訪れて気づいたのが演奏前とインタミにビール、コーヒー、赤・白ワイン、が無料で供されるということ。美味しい白ワインを飲みつつ、開園を待ちました。いきなりサロネンのMCで始まったコンサートですが、自作のピアノ協奏曲はというと評価に困ります。とりあえず、オランダの聴衆は非常に礼儀正しいのか優しいのか、たいていスタンディングオベーションで演奏を称えるんですけど、この作品では立つ人もまばら。一方、指揮者としてのサロネンは冴えていて、ストラビンスキーは良い出来たったと思います。演奏後には観客総立ちでしたし。そんなこんなで、著名なコンサートホール「コンセルトヘボウ」体験を終えたのでした。